横浜商大高校野球部小史
昭和16(1941)年 軟式で野球部創部。
昭和21(1946)年 硬式に切り替え、夏の全国野球選手権神奈川大会に初参加。1回戦で興中に4−10で敗退。
昭和24(1949)年 この頃、応援部が創部される。
昭和25(1950)年 1回戦で興国高を13−6と破り、夏の神奈川大会で初勝利をあげる。
昭和28(1953)年 夏の大会2回戦から登場、前年5−7と敗れている秦野高と対戦。初回に3点を失うが5回に同点に追いつき最終回に決勝点 を奪い4−3で競り勝つ。
昭和30(1955)年 夏の大会で優勝候補だった小田原城東高を3−2で破る殊勲をあげる。初の準々決勝進出。
昭和34(1959)年  3回戦で小田原高と夏の大会初の延長18回・引き分け再試合を行う。後日の再試合で2−0で勝利する。2度目の準々決勝 進出。
昭和36(1961)年 春の県大会2回戦で投手柴田勲氏(元巨人外野手、私「YSOBtoshi」の小学校(横浜市立間門小学校)と中学校(横浜市立大鳥中学校)の先輩にあたる)を擁する強豪法政二高と対戦。健闘するが2−4で惜敗。
昭和39(1964)年 3度目の夏の大会準々決勝進出。
昭和41(1966)年 夏の大会初の準決勝進出で慶応高に勝利し、初の決勝進出を果たし、強豪武相高を1−0で退け夏の甲子園大会初出場を達成!!甲子園では1回戦駒大苫小牧高(南北海道)を13−3、2回戦郡山高(奈良)を6−2(延長10回)で勝ちつづけ準々決勝に進出!!準々決勝でこの大会の準優勝校の強豪松山商高(愛媛)に2−4で敗れるものの、最終回に2点を返し粘りを見せた。また、この年国体に出場!!この時の主な選手は投手佐々木正雄先輩(横浜商科大学硬式野球部監督)、内野手内藤博先輩((株)日本コロムビア 元日本代表)。
昭和43(1968)年  1回戦で信証高から33得点の夏の大会最多得点(当時)をあげる。この試合で4番打者玉村竹美先輩が1試合7打点を記録。秋の県大会では準決勝に進出。
昭和44(1969)年 好投手倉持明先輩(元ヤクルト、ロッテで活躍。当時2年生)を擁するも夏の神奈川大会4回戦でこの大会の優勝校東海大相模高と対戦。事実上の決勝戦といわれ0−0のまま延長戦に突入。熱戦を演じるが11回に決勝点を奪われ敗退。
昭和45(1970)年  夏の神奈川大会2度目の決勝進出で(投手はこの年も倉持先輩)昨年惜敗した東海大相模高と対戦。初回に4点を先行したが3回に追いつかれ5−12で敗退。
昭和47(1972)年 大会屈指の左腕投手木田勇先輩(元中日、日本ハムで活躍)を擁し、優勝候補に挙げられるが準決勝で秦野高に延長11回3−4で敗れ2度目の夏の甲子園大会出場は成らず。
昭和49(1974)年 春の県大会決勝戦で夏の神奈川大会優勝校藤沢商業高校(現藤沢翔陵高校)と対戦。延長10回を戦うが4−5で敗れる。
昭和50(1975)年 学校名を横浜一商高から横浜商大高に改めた1年目の大会。好投手松本隆春先輩(元大洋(今の横浜))を擁するも夏の大会準々決勝で日大高に0−3で敗退。
昭和56(1981)年 暴力事件で夏の大会を出場辞退する。
昭和58(1983)年 金沢哲男先生(鎌倉学園高校野球部OB)監督就任。
昭和59(1985)年 夏の大会大清水高戦で矢沢征一先輩が満塁ホームランを放つ。この大会は準々決勝で投手蒲谷和茂氏(元西武)を擁する関東六浦高に2−4で敗退。
昭和63(1988)年 秋の県大会で準決勝進出。河原隆一投手(現横浜)を擁するY校に1−8で敗れるも秋季関東大会で決勝進出。壮絶な打撃戦の末、柏市立柏高(千葉)に敗れ準優勝。
平成元(1989)年 初の春の選抜甲子園大会出場!!初戦(1回戦)で強豪福井商高(福井)と対戦し、10安打を放つが1−4で敗れる。この時の主な選手は投手渡辺亭先輩、内野手矢沢昭治先輩、外野手松江光彦先輩(横浜商大高校野球部コーチ)。
平成2(1990)年 夏の大会4回戦で河原純一投手(現巨人)を擁する川崎北高に0−5で敗退。
平成5(1993)年 3度目の決勝進出で、最大の強敵横高を2−1で破り27年ぶり2度目の夏の甲子園大会出場!!初戦の浦添商高(沖縄)に6−1、新潟明訓高(新潟)に10−0と快勝するも、3回戦でこの大会の優勝校の育英高(兵庫)に4−5と惜敗。この時の主な選手は内野手斉藤秀光先輩(オリックス〜現阪神)、投手福田香一先輩((株)住友金属鹿島〜(株)サンワード貿易)。
平成7(1995)年  好投手田代勇樹((株)いすゞ自動車)を擁するも夏の大会準決勝で慶応高に7−11で敗退。
平成10(1998)年 好投手小森孝憲(元ヤクルト)を擁するも、東神奈川大会準決勝で松坂大輔投手(現レッドソックス)を擁する横高に0−25と大敗。
平成11(1999)年 春の大会で前年大敗した横高と対戦。延長10回を戦い、4−1で競り勝つ。
平成12(2000)年 夏の大会準決勝に進出するも準決勝で桐光学園高に2−12で敗退。このころ、私設応援隊が(勝手に)結成される(当時の メンバーは私「YSOBtoshi」、同級生、平成10年3月卒業の後輩)
平成13(2001)年 私設応援隊が「横浜本牧緑梅会」という名が付けられる。秋の県大会4回戦で横高に2−1で競り勝つ。
平成15(2003)年 好投手給前信吾・田澤純一(現レッドソックス)を擁し、4度目の決勝進出で強敵横高を7−2で破り10年ぶり3度目の夏の甲子園大会出場!!甲子園では初戦(1回戦)で前年全国制覇校明徳義塾(高知)と対戦し、健闘するが1−4で敗退。
(この小史は平成5年の甲子園大会出場記念誌「輝いた夏!第一健児」に書いてあったものを私流にアレンジしたものです)
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