私の大型一種免許挑戦記(二俣川試験場にて)

 (こちらは、私が神奈川県の二俣川自動車運転免許試験場で大型自動車第一種免許に挑戦したことを綴ってあるページです。合格までの長い道のりが記されていますが、どんな努力をしてきたかを皆様にお伝えしたいと思い公開することにしました。ご購読宜しくお願い致します。)

はじめに
 私は2001年4月〜2005年3月まで神奈川県横浜市内の某大学に在籍していた。その間、日商簿記検定と情報処理技術者試験の2つの資格に挑戦したが、恥ずかしながらすべてだめだった。おまけに3年の後半から嫌な事続きで4年のときは腰椎椎間板ヘルニアにかかってしまうなど、とにかく嫌な事ばかりがあったので資格どころの騒ぎではなかった。結局それらの資格を受けずに卒業を迎えることになってしまった。当然、大学時代の良い思い出は無いに等しかった。10年間大学にいるような感覚になってしまったぐらいだった。大学の後期試験が終わった直後、私は思った。「とにかく最悪な4年間だった、とくに3年の後半から4年の時は。だからここで何か良い思い出を作ろう。それには・・・・・・何か資格が欲しい。私でも簡単に取れるような資格が欲しい。」そこで考えたのが一般に「大型免許」と呼ばれている「大型自動車第一種免許」である。「せめてマイクロバスを運転できる免許ぐらい必要だ。」そう思って私は大型一種免許に狙いを定めることとなったのだ。この大型一種免許は車両総重量8t以上、最大積載量5t以上、乗車定員11人以上の車、簡単に言えば自動二輪車、大型特殊自動車、旅客自動車(要二種免許車)、トレーラーを除くほとんどすべての車が運転できるという素晴らしい免許である。それに私はそのときは普通免許を取ってから9年が経っており、また当時27歳という年齢なので大型一種を取れば政令大型自動車(車両総重量11t以上、最大積載量6.5t以上、乗車定員30人以上。大型ダンプカーや大型ミキサー車のような砂、砂利、玉石、土、アスファルトコンクリート、レディースミクストコンクリートを積む車や火薬類(火薬50kg以下、爆薬25kg以下は除く)を積載している車や大型緊急自動車のこと。21歳以上で大型一種免許を所持していて、大型免許や普通免許または大特免許のいずれかを受けていた期間が3年以上の人(簡単に言うと二種免許試験受験資格所持者)が運転できる。特定大型自動車とも言う。)も運転できるというオマケがついてくるのだ。そういうことは就職や独立に有利になるということなのだ。だが私はここ4年間、車のハンドルを握っていないペーパードライバー状態である。また、免許を取る方法を考えなくてはならない。皆様がよく知っている指定教習所で取る方法もあるがこのときはお金に余裕が無かったので諦める事になった。そこで考えたのは神奈川県二俣川運転免許試験場で直接受験をしようということになった。だがこの方法は大変難しく採点が厳しい。私にとっては無謀とも言える挑戦といっても過言ではないのだ。だが、限界に挑戦したがる私にとっては最適な方法であると考えた。そして、2005年2月3日、大型一種免許挑戦を決断した。

2005年2月3日、練習1回目1時間。戸塚自動車学校。午後受験申請。
 決断してすぐ、私は戸塚自動車学校へ練習の申し込みへ行った。申し込みを終え早速時間が空いているというので即日練習する事となった。外に出て時間を待っていたら鐘がなり放送が入った。教える人はここの経営陣の一人の商大高OBであった。「トラックは運転した事ある?」ときかれたので私は即座に「昔、一番大きな車で2tロングを運転した事はありますが4tは全く運転した事がありません。」と答えた。そして車を目の前にした。やはりでかかった。そして車の大きさについて説明を受けた。これ以上幅が広いとナンバーがもらえないという説明を受けた。また、二俣川は厳しいだとか難しいというのは気のせいで安全運転が出来るかどうかの試験である事を教わった。そして「見本を見せてあげるから助手席に乗って。」と言われしばらくは助手席で研究をした。そして私が運転練習をすることになった。車がでかく感じて緊張し、あまり思ったとおりにいかなかった。曲者はエアブレーキである。ゆるく踏むとなかなか止まらないし、かといって強く踏むと「ガクン!!」という衝撃を受けるくらい急ブレーキになってしまうのだ。私は大いに不安を感じたが、久しぶりにハンドルを握れたことには嬉しくも感じた。
 午後は二俣川試験場へ申請に行った。先ずはコピー機の前に並ぶ。時間が来て自分の出番が来たら大型一種を受験する旨を伝えて、所持免許証を申請書にコピーしてもらう。そして1番窓口の収入証紙売り場で3,300円分の証紙を買い、申請書に写真を貼り適性検査の場所へ視力と深視力検査を受ける。深視力で少し苦戦したが、無事に適性検査を終えしばらく待たされて試験日が書かれた書類を受け取った。指定日は2月8日午後となっていたが、2月13日午後に変えてもらった。そして私は途中の本屋で「最速マスター大型免許合格完全マニュアル」を購入し帰宅したが、なぜか体調が悪くなってしまっていた。

2005年2月4日、練習2回目1時間。戸塚自動車学校。
 この日は体調が悪い中、何と朝一番の9時からであった。私は気持ち悪さを抑えながら教習を受けた。だが、私はその日は嬉しさを感じた。戸塚自動車学校はアットホームである事に気が付いた。全ての先生方に私は「おはようございます」と挨拶が出来た。9年前に普通免許のときに通っていた某教習所とは大違いだと思った。そして教習時間になったが、前日と同じ方が教えることになった。この日も前日同様外周を周る教習を受けたが、ハンドルのタイミングとブレーキがまだうまくいっておらず課題走行はまだお預けである。果たしていつになったら課題走行を教わる事ができるのか。

2005年2月7日、練習3回目1時間。戸塚自動車学校。
 前日、前々日は土日だったため体をゆっくり休ませる事が出来た。だが気持ち悪さは少し残っている。でも予約を取った以上は教習を受けなくてはいけない。今日は外周と交差点の走行のやりかたを学んだ。この日も同じ方が教えた。最後に縦列駐車を教わる事が出来た。ステップアップしたのか。だが相変わらず車に慣れてはいない。この日は試験場練習の申し込みをした。それと同時に試験場コース図を購入した。

2005年2月8日、練習4回目1時間。戸塚自動車学校。
 この日で戸塚自動車学校内での教習は最後となる。次はとうとう試験場での練習になるからだ。この日も同じ方が教えた。この日は初めて乗るあまり慣れていない車で教習を受けた。だからノックをさせてばかりいたり狭い道でポールに接触させたりしていた。この日はやっとS字の練習をやったが接輪しまくりで難しかった。不安が残る中で教習を終えることになった。

2005年2月13日、練習5回目1時間。戸塚自動車学校の車で試験場練習
 遂にこの日は試験場練習である。この日は違う方が教えた。練習車は試験場持込専用で大型車だが普通免許で運転できる範囲の車だ。初めて乗る車だったせいもあってか全てがうまくいかなかった。先ずは左の寄せが甘い。キープレフトが必須だが、過去に車をぶつけた記憶があるためそれがうまくいかなかった。そして、試験場のコースは逆行しやすくそれを何度もやってしまった。だが明日は試験日である。不安が残る中試験を受ける事となった。

2005年2月14日、試験1回目2号コース。クランクの手前で逆行し試験中止。
 遂にこの日が来た。この日は午後からの試験だったので私は12時ごろ試験場に到着した。3,300円分の証紙は初回の試験なので買わなくても良いのでこの日は試験者利用料として1,100円の貸車券を購入すれば良い。そのとおりにして13:00に受付が開始された。受付をすると私は2号コースの1番となった。その際にコース図の入ったA6程のクリアケースを受け取る。1号館に移りしばらく待っていたら試験官が来てコースの説明を受ける。そして遂に試験開始。受験番号と氏名と生年月日を言い、クリアケースを渡し免許証を提示する。ルームミラーとハンドルと座席を調整し準備ができた事を告げ、ギアをニュートラルにしクラッチとブレーキを踏みエンジンをかける。走行を開始したが早速課題速度45kmの道でギアが入らず苦戦したり、踏切を出た後の右折左折がうまくいかなかった。おまけにクランクの手前で逆行させてしまったので試験中止を申し出た。 16:00近くになって合否発表があったが当然不合格で私と同じ合格者は2号コースから2〜3人だけで隣の3号コースは0人だった。やはり二俣川の難しさを改めて実感した1日であった。次の指定日は2月22日であったが大学の事情で中断する事となってしまい、次の試験までずっと間が開く事となってしまった。

2005年3月13日、練習5回目2時間、試験場にて練習(浜本先生の指導)。再開を決意。
 前回の試験から1ヶ月ほどたってしまっていた。私は一度決めた事はやめたくなかった。過去に日商簿記検定と情報処理技術者試験を挫折してしまっているのでそのかわりに受けているのだ、そして良い思い出が欲しいから受けているのだということを忘れてはいなかった。私は再開を決意した。この日指導してくださる方は「運転楽習BACKUP」の浜本先生である。先ず待合室で浜本先生とお会いし挨拶をした。いよいよ教習に入った。外周を何度か走ったがやはり久しぶりなのでうまくいかない。どうも普通車の感覚になってしまっているようだ。2限目に課題走行に入ったが、なかなかうまくいくものではなかった。まだコース練習が出来る段階ではないこと言われ、19日にもう2時間練習する事になった。

2005年3月19日、練習6回目2時間、試験場にて練習(浜本先生)。
 この日も2時間浜本先生に教わる事となった。少し外周を走ってからコース練習に入った。先ずは2号コースから走った。だがまだ普通車の感覚が抜け切れていないといわれた。途中で浜本先生が見本を見せてくれてメリハリのある走り方と安全確認を教わった。次は3号コースの練習をした。何度も練習をしているうちに車に慣れてきているような気がした。そろそろ試験を受けることを勧められたが、念のためもう一度2時間練習する事にした。

2005年3月27日、練習7回目2時間、試験場にて練習(浜本先生)。
 この日は高校野球春季大会地区予選の東高校戦の後だったせいか、少し疲れた状態で教習を受けた。だから後半に入って前半にうまくいっていたクランクがうまく出来なかった。それでも絶対にうまくいくことを信じて30日に受ける事になった。

2005年3月30日、試験2回目3号コース、クランクで脱輪し試験中止。
 2回目の試験を久しぶりに受ける事になった。私は朝早く試験場に着きキャンセル待ちをすることになった。7:10に開門しキャンセル待ち名簿に名前を記入する。証紙は前に購入してあったので貸車券を購入してキャンセル待ちをする。結局この日はキャンセル待ちは全員受験する事ができ、3号コース13番という遅い番号になってしまった。待たされて試験となったが、あれだけうまくいっていたはずのクランクで脱輪してしまい、試験中止となってしまった。果たしていつ合格できるのかだんだん不安になってきていた。次の試験日は4月6日午前である。

2005年4月6日、試験3回目2号コース、クランクで切り返しがうまくいかず試験中止。
 3回目の試験だった。今日は前回と同じ試験官である。朝早くに試験場に着き若い番号を狙う。証紙と貸車券を買い、2番窓口へと向かう。この日は2号コース4番となった。だが、仕事の疲れが出てしまっているせいか相変わらずボロボロだった。またもやクランクで切り返しがうまくいかなかった。「試験やめる?」ときかれたので「はい。」と答え試験中止となった。もっと落ち着くようにと試験官から注意を受けた。9日にクランクなどの課題走行を重点に練習する事となった。

2005年4月9日、練習8回目1時間、試験場にて練習(浜本先生)。
 これまで試験を3回受けたがなかなかうまくいくものではなかった。そこでこの日はS字、クランク、縦列駐車、方向変換を重点的に教わる事にした。細かいミスは何度かしたが、練習をしていくうちにうまくいくようになってきていた。だが、この日に練習した車はシートベルトがボロボロだったりギアが外れたりするかなり古い車であった。

2005年4月13日、試験4回目3号コース、踏切手前の曲がり角で脱輪し試験中止。
 この日は4回目の試験だった。試験官はまた同じ方となった。3号コース3番だったが私は「何も無いところでコケた」ようなミスを犯してしまったのだ。慣らし走行、40kmコース、徐行と進んだが次の踏切に入る寸前の左折で脱輪してしまったのだ。オマケとしてクランクを走らせてもらったがすごくうまいと誉められた。ここで試験が中止となってしまい、相変わらず落ち着きがないといわれた。この試験官とはその後も顔なじみとなり試験場でお会いするたびに挨拶するようになった。

2005年4月26日、試験5回目2号コース、中央線を踏んでしまい試験中止。
 この日は5回目の試験。試験官は違う方だった。この日は戸塚自動車学校の先生方が来ていた。2号コース4番。試験の方はクランクを越す事は出来たが、クランクを出て一時停止を出たあとに中央線を踏んでしまい試験中止となった。5回受けて受からなかったので更に不安になった。果たしていつ受かる事ができるのだろうかと。

2005年5月13日、試験6回目3号コース、最悪の事態に。
 この日の試験は最悪だった。試験官は1回目と同じ方で相性の悪い試験官だった。この日も戸塚自動車学校の先生方が来ていた。3号コース3番だったがメリハリのある運転が出来ない。そして踏切に入って左により切れていないため試験中止となってしまった。しかしこの日は新たな知り合いの方が出来た。試験を受けていていろいろな方と知り合ったが、この日に知り合った一人のおじさんが一番良い方だった。私は考えた。ぶっつけ本番で行くつもりだったが、もう一度確認のために練習する事にした。最後に2回目〜4回目受験時の試験官にお会いし結果を伝えた。頑張れと言われた。

2005年5月21日、練習9回目2時間試験場にて練習(浜本先生)。確認のための練習。
 前回の試験は最悪だったため、この日は確認のための練習をすることにした。最初の1時間は2号コースの練習をした。だが、私の悪い癖があることを指摘された。前にも指摘された事だが、ミスをしたときに首をかしげて唸り舌打ちをしてしまうことだ。私自身、短気な性格なのでついついやってしまうことだ。それが大きなミスにつながっていることである。縦列駐車は何と一発でできるようになっていた。これには驚いた。途中で浜本先生が見本を見せてくれた。2時限目は3号コースを練習したがあまり時間がなくのびのびと練習できなかった。この次は決めるしかない、そう自分に誓った。

2005年5月23日、試験7回目3号コース、道を間違えそうになり不合格。
 この日は久しぶりに午前の指定だった。前回一緒に受けたおじさんもいた。この方は前回の試験は課題速度45kmの道で速度超過で不合格になったらしい。この方と一緒に受かりたい、そう思った。この日も3号コースで3番。試験が開始された。最初は調子よくスムーズにいったかに見えた。最高速度40km指定路をこえ徐行しメリハリをつけ踏切に入り、見通しの悪い交差点をこえクランクに入った。クランクは難なくいったがその後大きなミスを犯してしまう。何と左折するはずなのに右折しようとしてしまったのだ。当然左折大回りになってしまった。坂道発進そしてS字に入った。S字を出る際にまた左折大回りをしてしまい減点超過で試験中止となった。発着所に着き大回りとS字とクランクで後輪と縁石がほんのわずかしかなかったことを指摘された。だがメリハリに関しては良いと言われた。例の方も方向変換出口付近の障害物をよけなかった事が効いてしまい完走をしたが不合格だった。私はこの方と落ち込みながら一緒に帰った。どうやらこの方は試験場の近所の方らしい。私はこの日の夜は眠れなかった。でも次回はこの悔しさを嬉しさに変えようと熱く燃えた。

2005年5月31日、試験8回目3号コース、初完走、そして・・・・・・。
 私はこの日は決めてやると熱く燃えていた。試験は午後からだった。着いてまず昼食をとり貸車券を買った。しばらくして証紙購入売り場が開いたので証紙を購入した。しばらくして待っていたら例のあのおじさんが来た。挨拶をし、しばらくお話をしていたら遂に試験受付窓口が開いた。書類を提出しコースと番号が決まった。私はまたまた3号コースで2番、あの方は2号コース1番と決まった。待合室に行ったらまた戸塚自動車学校の先生方がいた。待合室で皆とお話をしていたらしばらくして試験官が来た。初めての試験官だったが、いきなり「コースは覚えていますか?」ときいてきて殆どの受験者が覚えていないのを知るとがっかりしていたので「厳しそうな試験官だ。今日もまた落ちるかもしれない。」と一瞬思った。また、他の受験者が質問してきた際に私はその質問に答えてしまい、そういうことは受験者間で話すよう言われてしまった。そして試験開始、私は2番なのですぐに発着所へ行かなければならなかった。ちなみに2号コース1番のあの方はというとノーミスの完走だったらしい。私は3号コース1番の方がすぐに終わったので早くに私の番になった。「とにかく、前回の反省を活かしながら受けよう。」そう思いながら車に乗り込んだ。いつものように生年月日と氏名を伝え、ミラーと座席とハンドルをチェックする。それらの準備が出来てからギアをニュートラルに入れてクラッチとブレーキを踏みながらエンジンを始動しサイドをおろしギアを2速に入れてから発進する。これもいつもと一緒だ。だが慣らし走行で1回目のガクンブレーキをさせてしまった。これはノーカウントだが落ち着くように言われてしまう。やがて慣らし走行から採点開始となり、1番交差点を左折し40km指定の道を走り徐行標識の道を徐行し徐行路を抜けメリハリをつけ、そして踏切に入る。だがそこの左折曲がり角で少し膨らんでしまい、違和感を感じた。踏切を無事に通過し左折もうまくいったが、その出口の右折で少しぐらつき、またも違和感を感じてしまう。見通しの悪い交差点、クランク、坂道発進、S字と難なく通り過ぎたが、7番交差点前の一時停止でまたもガクンブレーキをさせてしまい「こらこら、なにやっているんだ。」と言われてしまった。その後の課題速度45kmも障害物回避も難なくクリアしメリハリをつけながら走り、いよいよ方向変換へ突入した。方向変換路で左に寄せ、頭を右に傾け方向変換を開始する。難なく入り、後は出られるところまで入れればよいのだが私は後ろを見るとまだポールと車の間が大きく開いていたのでまだまだいけると思いながらバックを続けた。すると「いつまでバックしているの?これはトラックなんだから出られるところまで入れればいいんだよ。バスはちゃんと入れないと出られないけど。」といわれたのですぐに停車させた。そして肘を上げるななどいろいろ言われてしまった。「さあもうすぐだよ。慎重にいけよ。」といわれたので最後はやけに慎重になっていた。無事に完走したが試験官からガクンブレーキと違和感があったところ2ヶ所を指摘された。そして「8回も受けているんだね。」とも言われた。「完走はした。だからわからない。」そう思いながら発表を待っていた。戸塚の先生方に「完走はしました。ですからわかりません」と報告した。発表を待ちながら私はあの方と2人で他の受験者の様子を見ていた。何人かは完走しているようだが、何人かはクランクで乗り上げたりして途中で中止になった人がいた。だがこの日は発表まで長く感じた。この日は私、他の受験者からかなり期待されていたらしい。後で聞いてよかったと思った。そしてやっと全ての試験が終わり、試験受付窓口へ向かった。先ずは2号コースの発表があった。あの方が受かった。2号コースはその方一人だけだった。だが3号コースはまだのようだ。そしてやっと「お待たせしました。大型一種3号コースを受験された方、2番窓口へお集まりください。」という放送が流れた。そして・・・・・・「先ずは合格者から発表します。2番のtoshiさん(勿論本名で)、○番の○○さん、以上2名の方合格です。」・・・・・・この瞬間は言葉が出ず試験官に深々と黙礼をしただけだった。もう一人3号コースを合格をされた方は1回目の受験で合格だったので私はそっちの方を大喜びしてしまった(他の受験者からどうやら笑われていたようなので今考えるとやはり恥ずかしい)。ここからの説明が書かれたカードを渡され安全運転を心がけるように言われまた深々と黙礼した。そして1,650円の証紙を購入し戸塚の先生方にお礼を言った後、2階へエスカレーターで上ったらあの方が待っていてくれていた。ちなみにその日は結局大型一種は2号コースと3号コースをあわせて合計25人位の受験者がいたが合格者は私を含めて合計3人だけだった。しばらく待っていると申請書と免許引換券を渡され、引換券に住所や氏名を書き証紙を貼り、そして写真撮影をした。1号館1階へ移り、引換券を持ちまたしばらく待った。やがて免許が出来上がった。「普通」の右隣に「大型」という文字が刻まれた運転免許証である。外を出ると美しく夕焼けが輝いていた。2005(平成17)年5月31日、この日はこの私に良い思い出が出来た。これで私は大型トラック、10tトラックや10tダンプも運転できる。大型の白ナンバーバスもマイクロバスも運転できる。あの車も、この車も・・・・・・。私はあの方と喜び合いながら一緒に帰った。途中で再会を誓い合い別れて帰った。私はこの美しい思い出を忘れずに安全運転を心がけたい、そしてこの免許で何らかの役に立ちたい・・・・・・そう思いながら美しい夕焼けを浴び、一人帰っていった。

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